現在の活動
■「医療連携鍼灸師」育成セミナー 受講随時受付
「患者中心の医療」の実現に向け、医療連携を目指す鍼灸師育成のためのセミナーです。
受講は随時受け付けております。詳細・お申し込みは下記こちらにアクセスください。
■詳細・受講お申込みはこちら
■症例検討会 DAPAカンファレンス(医鍼薬地域連携カンファレンス)
Doctors, Acupuncturists, Pharmacists regional cooperation Association:医鍼薬地域連携研究会
毎月第2月曜日 20時~ zoom開催 (8月12月休講)
医療連携・多職種連携の教育を受ける機会の少ない鍼灸師にとって、日々の臨床は閉ざされたものになりやすいです。
このことは、抱え込みやインシデントなど、患者の不利益や思わぬトラブルに繋がる可能性があります。
そこで、現場での医療連携を経験、あるいは学習した鍼灸師が、実際の症例を報告し合い、医師の意見も交えて検討
することで、症例に対する新しい視点や・現代医学的な診断やケアの観点からも助言、知見を得る機会を設けました。
医師、鍼灸師、薬剤師なども参加するこの会で、鍼灸師は、医療者同士の高度なコミュニケーション・スキルを身に
付け、日々の臨床に役立てて欲しいと思います。
■詳細・参加お申込みはこちら
これまでの活動
■活動履歴
■アーカイブはこちら
■ありがとうスマイルプロジェクト(現在休止)
首都圏で今、心身を患者さんの治療に捧げていらっしゃる医療従事者の方へ、少しでも心も体も軽くなっていただこうと、日本東方医学会の医療連携鍼灸師※が無料で鍼灸施術のご提供させていただきます。(2020.6.4)
詳細はこちら
【プロジェクト実施報告書】
~これまでの活動履歴~
【第13回 医鍼薬地域連携研究会】2020年7月28日(火)19:00~21:00
■オンデマンド配信
■内容 概要はこちら
●上馬塲和夫医学博士
「上部頸椎障害の解説と様々な補完医療による治療法の紹介」
【第12回 医鍼薬地域連携研究会】現地開催中止 ※コロナ感染症による自粛のため
■日時:2020年4月28日(火)19:00~21:00
■場所:ハリウッド美容専門学校・ハリウッド大学院大学・701教室
■講師:上馬塲和夫医学博士
■内容:別日にビデオセミナーにて開催 内容は下記YouTubeよりご視聴いただけます。
【第11回 医鍼薬地域連携研究会】2020年1月28日(火)19:00~21:00
■進行:赤羽峰明先生(あか羽鍼灸院院長)
■内容:●田無北口鍼灸院院長 白石健二郎先生
「医鍼連携の実例 治療院価値提供の向上」
●東方医療振興財団 理事 上馬塲 和夫 先生
「医鍼薬連携に必要な統合医療的な知識②」
【第10回 医鍼薬地域連携研究会】2019年10月29日(火)19:00~21:00
■進行:赤羽峰明先生(あか羽鍼灸院院長)
■内容:●神奈川県鍼灸師会 元会長 清水 慎司 先生
「コメディカル鍼灸ー医療のハブとして役割と期待ー養生鍼灸師という考え方」
●東方医療振興財団 理事 上馬塲 和夫 先生
「医鍼薬連携に必要な統合医療的な知識」
●マベリック鍼灸施術室 院長 大西 葉子 先生
「アメリカにおける養生 ワイル博士 ヘルスコーチの紹介」
【第9回 医鍼薬地域連携研究会】 2018年11月5日(月)
■進行:上馬塲和夫医学博士(帝京平成大学客員教授)、赤羽峰明先生(あか羽鍼灸院院長)
■内容:●医鍼薬地域連携研究会代表 赤羽峰明 『「医療連携を目指す鍼灸師育成講座」の開始案内と、講座修了者の活動について』
●医業経営研鑽会会員 堀江まゆみ『集客できる鍼灸院のつくり方』
【第8回 医鍼薬地域連携研究会】2018年10月1日(月)
■講師:上馬塲和夫医学博士、赤羽峰明先生、高橋博樹先生、長瀬眞彦先生
■内容:●医師と鍼灸師 紹介の仕方
~“医師と鍼灸師をつなぐ「同意書」”と“相容れない「同意書」”~
【第7回 医鍼薬地域連携研究会】 2018年9月3日(月)
■講師:西岡秀樹先生 / 税理士・行政書士
西岡秀樹税理士・行政書士事務所代表
医業経営研鑽会会長 医業経営・実務対応アドバイザー
■内容:1、 医療施設と鍼灸治療のコラボレーションは可能か
2、 医療と鍼灸、保険と自費 混合診療の定義
3、 院内物販の会計
4、 6月1日改正後の医療広告規制
5、 質疑応答
【第6回 医鍼薬地域連携研究会】 2018年8月2日(月)
進行:上馬塲和夫医学博士(一財)東方医療振興財団 理事長)、赤羽峰明先生
内容:●小倉沙羅歯科医師(銀座漢方・天クリニック) 「気診」
【第5回 医鍼薬地域連携研究会】 2018年7月2日(月)
進行:上馬塲和夫医学博士(一財)東方医療振興財団 理事長)、赤羽峰明先生
内容:概要はこちら
●荻野杏里先生 「歯科領域における鍼灸(歯科医師との連携)」
●ディスカッション
【第4回 医鍼薬地域連携研究会】 2018年4月19日(木)
進行:赤羽峰明先生(あか羽鍼灸院院長)
内容:概要はこちら
●泉晶先生 「ホリスティックケアから考える医鍼薬地域連携の現状と提案」
●小池弘人先生 「ジャングルカンファレンスから考える医鍼薬診療連携の基盤」
●ディスカッション 「医鍼薬地域連携の今後の活動における提案」
【第3回 医鍼薬地域連携研究会】 2018年2月5日(木)
進行:上馬塲和夫医学博士(一財)東方医療振興財団 理事長)、赤羽峰明先生
内容:●川嶋朗先生 「統合医療の見地からみた連携」
●高橋秀則先生 「病鍼連携についての私見‐鍼灸医師の立場から-」
●末松清佳様 「薬剤師からみた鍼灸師との連携」
【第2回 医鍼薬地域連携研究会】 2017年12月6日(木)
進行:上馬塲和夫医学博士、赤羽峰明先生
内容:概要はこちら
●赤羽峰明先生 「医鍼薬地域連携の必要性と問題点」
●北川毅先生 「病院おける鍼灸の活用とその実現への課題」 他
【第1回 医鍼薬地域連携研究会】 2017年10月4日(木)
進行:上馬塲和夫医学博士、赤羽峰明先生
内容:概要はこちら
●会の趣旨と方向性
●ディスカッション
過去症例と寸評
Case66 2025/4/14
70代 男性
主訴:膝下、手掌の痛みとしびれ、及び脱力感
「慢性炎症性脱髄性多発神経炎/多巣性運動ニューロパチーの一症例」
Case65 2025/3/10
40歳代 女性
主訴:めまい症状
「めまい症状に対する鍼灸治療〜コミュニケーションの重要性と医療費削減の可能性〜
Case64 2025/2/10
70歳代 女性
主訴:下臀部痛、会陰部痛
「脊柱管狭窄症に対しセルゲル法を受けた臀部・会陰部痛の症例」
Case63 2025/1/20
80歳代 男性
主訴:歩行困難、安静時震顫
「パーキンソン病と診断された患者の歩行困難と安静時震顫の1症例」
Case62 2024/11/11発表
80歳代 女性
主訴:右下腿後面の腫脹、熱感、発赤、疼痛
「蜂窩織炎とその後の皮膚肥厚に対する鍼灸治療の一例」
Case61 2024/10/7発表
70代 男性
主訴: 右片麻痺症状・頻尿・排便障害
Case60 2024/9/9発表
30代 男性
主訴:一過性意識障害
症例 ※本症例の発表者は鍼灸院、薬店に勤務する鍼灸師、登録販売者であり、発表中に煎じ薬の
処方が出てきますが、登録販売者であっても、一部の煎じ薬を販売することが出来、
本症例はその範疇内での処方ですので、法的に問題はありません。
Case59 2024/7/8発表
70代 女性
主訴:膝痛、両下腿>両手の痺れ、歩行困難
「脳梗塞の既往を有する肥満患者の四肢疼痛、痺れ、歩行困難の1症例」
Case58 2024/6/10発表
70代 女性
主訴:COVID-19罹患後の不定愁訴
「COVID-19罹患後の不定愁訴の一症例」
Case57 2024/5/13発表
40代 女性
主訴:左顔面筋の拘縮
「顔面神経麻痺後遺症、その他不定愁訴の一症例」
Case56 2024/4/8発表
50代男性
主訴:左目がより目になってしまった
「コロナ後遺症による外転神経麻痺の症例」
Case55 2024/3/11発表
40代男性
主訴:腰痛、腹痛
Case54 2024/2/19発表
10代女性
主訴:頭痛、不安感、倦怠感、傾眠傾向
「心療内科と鍼灸治療を併用した頭痛・不安感・倦怠感・傾眠傾向の一症例」
Case53 2024/1/15発表
80代女性
主訴:左下肢痛、歩行困難
「COVID-19罹患後に寝たきり状態となった高齢者の1症例」
Case52 2023/11/13発表
非公開
Case51 2023/10/16発表
80代男性
主訴:腰痛、健康維持管理目的
「治療経過中に慢性硬膜下血腫を発症した症例」
Case50 2023/9/11発表
40代女性
主訴:背部から、腹部にかけての痛み
「不育治療が奏功するも、妊娠中に原因不明の疼痛を生じた一症例」
症例:非公開
Case49 2023/7/10発表
60代 女性
主訴:腰痛
「原因不明の腰痛により多科を受診も原因は判明せず鍼灸でも効果をみない腰痛の症例」
Case48 2023/6/12発表
40代 女性
主訴:電磁波攻撃による幻聴、めまい・頭痛・背部痛・緊張・動機・汗ほか
「統合失調症疑いの連携事例」
Case47 2023/5/8発表
80代 男性
主訴:嚥下障害
Case46 2023/4/10発表
90代 女性
主訴:頻尿
Case45 2023/3/13発表
60代 男性
主訴:自律神経失調症(過敏性腸症候群)、朝起きられない(不登校気味)
「起立性調整障害疑い患者を鍼灸院から総合病院へ紹介した事例」
Case42 2022/11/14発表
60代 男性
主訴:健康保持
「毎週通院していた患者から脳血栓が見つかった症例」
Case41 2022/11/14発表
70代 女性
主訴:健康保持
「都区部での独居高齢者の現状と関わりの症例」
Case40 2022/10/17発表
60代 女性
主訴:みぞおちの不快感
「鍼灸院から医療機関へ三尖弁逆流証(三尖弁閉鎖不全症)の症例」
Case39 2022/10/17発表
60代 男性
主訴:掻痒感
「帯状疱疹ヘルペスの症例」
Case38
非公開
Case37 2022/9/17発表
40代 女性
主訴:不妊
「漢方クリニックからの紹介 40代不妊の症例」
Case36 2022/7/11発表
10代 女性
主訴:無月経
「漢方クリニックからの紹介 10代女性続発性無月経の症例」
Case35 2022/7/11発表
40代 女性
主訴:貧血症状
「子宮筋腫核摘出手術後における子宮留血(膿)症の症例」
Case34 2022/6/13発表
50代 女性
主訴:左小指PIP関節の痛み
「受傷一か月後に小指中節骨骨折が判明した症例」
Case33 2022/6/13発表
40代 男性
主訴:手足のしびれ感、腰痛
「鍼灸中に起きた胆石発作の症例」
Case32 2022/5/9発表
詳細非公開
「潰瘍性大腸炎の症例(新中医カンファレンスから連携のヒントを探る)」
Case31 2022/5/9発表
70代女性
主訴:腰痛 振戦 歩行困難
「鍼灸院から医療機関へ紹介し多職種介入となったパーキンソン病の往療症例」
Case30 2022/4/11発表
詳細非公開
「往療時の患者家族への鍼灸施術の症例」
Case29 2022/4/11発表
60代女性
主訴:QOLの低下
「漢方クリニックからの紹介によるパーキンソン病の往療症例」
Case28 2022/2/14発表
60代男性
主訴:膝窩部痛、下肢痛
「膝窩部痛でのインシデント症例」
Case27 2022/2/14発表
70代男性
主訴:夜間、胸部のチクチクした痛み
「帯状疱疹後遺痛と思われる痛みが心筋梗塞によるものだった症例」
Case26 2022/1/17発表
80代女性
主訴:X年8月に発生した腰部圧迫骨折による全身の痛み
歩行困難 便秘 胃の痛み 睡眠障害など
「圧迫骨折で鍼灸施術していた患者が、転倒し再度骨折、施術中止となった症例」
Case25 2022/1/17発表
60代女性
主訴:r側の耳で音が聞き取れない医師の診断名:突発性難聴
「漢方クリニックから紹介された特発性難聴の症例」
Case24 2021/12/13発表
50代 男性
主訴:右顔面神経麻痺、ドライアイ、不眠
「医療機関から紹介されたベル麻痺の症例」
Case23 2021/12/13発表
30代 女性
主訴:末梢性顔面神経麻痺(右)、顔面痛(右)、耳鳴(右)
「同側の顔面痛と耳鳴りを伴う末梢性顔面神経麻痺の症例」
Case22 2021/11/8発表
70代 女性
主訴: 息苦しさ・倦怠感
「新型コロナウイルス感染症後の息苦しさ・倦怠感の症例」
Case21 2021/11/8発表
30歳代 男性(学生)
主訴:コロナ罹患後に発症した諸症状
「鍼灸のみで対応したLong-COVIDの1症例」
Case20 2021/10/11発表
60代 男性
主訴:左肩関節痛
「鍼灸院で経験した遅れて発現するmRNAワクチンの有害事象の症例」
Case19 2021/9/13発表
40代 女性
主訴:筋筋膜性疼痛
「乳がん術後の筋筋膜性疼痛(MPS)においてトリガーポイント注射と鍼灸で主訴が減退した症例」
Case18 2021/8/2発表
80代 女性
主訴:不安感、譫妄、徘徊、食欲不振
「胃瘻から看取りの症例ー鍼灸師の報告ー」
Case17 2021/8/2発表
70代 女性
主訴:胸の違和感、動悸
「家族の看取りに際してのグリーフケアの症例ー訪問看護師の報告ー」
Case16 2021/7/12発表
70代 女性
主訴:胸の痛み、息苦しさ
「家族の看取りに際し再発した不安神経症の症例ー鍼灸師の報告ー」
Case15 2021/7/12発表
60代 男性
主訴:食欲不振、全身倦怠感
「胆管がん看取りに鍼灸師が関わった症例」
Case14 2021/6/14発表
40代 女性
主訴:産後の腰痛
「産後腰痛が腰椎椎体骨折であった症例」
Case13 2021/6/14発表
10歳未満 男子
主訴:小児夜間の遺尿
「夜尿症における標準治療と鍼灸の併用の症例」
Case12 2021/5/10発表
70代 女性
主訴:両橈骨手根関節・両膝関節の痛み
「関節リウマチ(RA)における鍼灸と漢方の併用の症例」
Case11 2021/5/10発表
40代 女性
主訴:逆子
「39週骨盤位での医療機関と鍼灸院の関りの症例」
Case10 2021/4/12発表
50代 女性
主訴:手足の痛み、外的刺激に過敏、不眠
「線維筋痛症(FM)において鍼灸と漢方の併用により痛みが軽減した症例」
Case9 2021/4/12発表
50代 女性
主訴:頭痛、耳閉感
「片頭痛において鍼灸と漢方の併用が主訴の減退に繋がった症例」
Case8 2021/3/8発表
10歳未満 女子
主訴:タンパク尿、浮腫
「難治性頻回再発型小児ネフローゼ症候群において鍼灸と漢方の併用が減薬に繋がった症例」
Case7 2021/3/8発表
30代 女性
主訴:めまい、複視
「複視・めまいから先天性良性脳腫瘍が見つかった症例」
Case6 2021/2/8発表
30代 女性
主訴:複視
「複視・めまいを訴える患者が脳神経外科・耳鼻科を経て鍼灸院に来院し改善を見た症例」
Case5 2021/1/18発表
60代 女性
主訴:食欲不振
「胃がん患者の抱え込みから逝去までの症例」
Case4 2021/1/18発表
80代 女性
主訴:下腿のむくみと痛み
「下腿のむくみから医療機関で心臓弁膜症が見つかった症例」
Case3 2021/1/18発表
70代 女性
主訴:転倒による肩関節の打撲
「転倒による肩の痛みから近隣医療機関を紹介した症例」
Case2 2020/12/14発表
70代 女性
主訴:歩行困難、股関節痛
「股関節痛を主とした患者に対し説明不足から鍼灸施術が中止となった症例」
Case1 2020/12/14発表
40代 男性
主訴:胃痛、胃もたれ感
「機能性ディスペプシア(FD)において鍼灸と漢方の併用により主訴が減退した症例」
間中喜雄先生 略歴
<略年譜>
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明治44年(1911年) 4月23日 |
神奈川県足柄下郡小田原町にて、代々医師の家系に長男として誕生。 (日本図書刊行会『国手 間中節斎』に詳述) 父: 直七郎(外科医、明治39年創業、間中外科医院院長)母:乙女 |
大正12年(1923年) |
小学5年終了後、小田原中学校へ入学。 9月1日 関東大震災を経験(12才) |
昭和6年 (1931年) |
静岡高等学校理乙卒業。 |
昭和10年(1935年) |
京都帝国大学医学部卒業(24才) |
昭和10~12年 |
東京、順天堂医院及び和泉橋慈善病院(現:三井記念病院)にて外科学を研修。 |
昭和12年(1937年) |
小田原にて間中外科医院を継承。第二代院長となる。その後、間中病院と改称。 小沢万代(20才)と結婚。(26才) この頃、偶然間中外科医院に往診に来た矢数有道医師(1908-1946)と意気投合。その縁で、有道氏の兄である矢数道明医師、当時『漢方と漢薬』の編集者であった気賀林一氏と知り合い、以降、東洋医学の世界と深く関わることになる。(『漢方と漢薬』7巻8号(復刻版19巻)「山中漢方談」に詳述) |
昭和12-17年 |
長男(純也)、次男(信也)、三男(賢也)誕生。 ※知愚庵というペンネームの由来については、それを聞いてきた相手を見て、「『浮世草子』の薮医竹庵をもじったもの」とか、「『論語』の“その知や及ぶべし、その愚や及ぶべからず”という語からとった。」などと答えていたが、名は定義でないからどうでもいいものだ、と、間中氏はいう。『そろばんのむだ玉』医道の日本社刊P207「名前のつけ方」参照 |
昭和16-21年 |
満洲・沖縄(宮古島)にて再び軍務に服す。 (陸軍軍医中尉) |
昭和20年(1945年) |
宮古島にて終戦、翌年の秋まで捕虜となる。(著書『PWドクター』に詳述) |
昭和21年(1946年) |
復員し、小田原にて外科医、針灸研究家として医業活動再開。(35才) |
昭和24年(1949年) |
万代と協議離婚。 庄司キヌと再婚。(38才) |
昭和25年(1950年) |
日本東洋医学会創設の発起人となり(他の発起人は和田正系,藤平健,長濱善夫,矢数道明,細野史郎, 森田幸門,大塚敬節, 龍野一雄,山崎順,丸山昌朗)、評議員に就任。 この頃より鍼灸医学誌への投稿活動、活発に続ける。(39才) |
昭和26年(1951年) |
間中病院を個人立より医療法人に改組。 理事長、院長を兼任。(40才) |
昭和27年(1952年) |
小田原市教育委員に就任。 (1期4年) |
昭和29年(1954年) |
東亜医学協会再発足の発起人となる。(他の発起人は矢数道明,細野史郎, 森田幸門,大塚敬節,馬場辰二) |
昭和30年(1955年) |
京都大学医学部大学院入学。(専攻生理学) |
昭和32年(1957年) |
医学博士号授与。 学位論文 「体表内臓反射、内臓体表反射に関する臨床的研究」(46才) |
昭和33-63年 |
針灸医学夏期講座 (毎年開催、現:経絡治療学会夏季大学)にて講師を務む。 (47-77才) |
昭和34年(1959年) |
国際針術学会 (パリ)にて講演。 |
昭和35~45年 |
東洋鍼灸専門学校三代目校長。(49-59才)初代校長は柳谷素霊氏、二代目校長は丸山昌朗氏。 |
昭和40年(1965年) |
熱傷時の激痛の治療経験から、イオンパンピング(疼痛局所における負の静電気イオン排除)による治療法を考案。後に「生体イオン誘導コード」として特許実用新案取得(1975年6月11日、旭物療器研究所)二種金属療法(2MC:Two-Metal-Contact)についても研究。 |
昭和41年(1966年) |
医療法人間中病院を特定医療法人社団温知会 (準公益法人) に改組。理事長に就任。(55才) |
昭和44年(1969年) |
谷美智士医師とともに、日本初の鍼麻酔下での外科手術に成功。 |
昭和47年(1972年) |
間中病院院長を退任。 温知会理事長を専任。 以後 東洋医学研究、随筆、絵画、書道等に専念。 |
昭和48年(1973年) |
谷美智士医師とともに「医師のための鍼灸セミナー」を主催。(日本東方医学会の前身) |
昭和49年(1974年) |
北里大学東洋医学総合研究所、東洋医学研究客員部長に就任。(大塚敬節所長の希望により、同研究所内に間中研究室を設置) |
昭和50年(1975年) |
「鍼灸トポロジー医学会」を創設(64才)。(以降、1989年まで学長を務める) |
昭和51年(1976年) |
MSA会機関誌『Acu-journal』を発刊。 |
昭和53年(1978年)5月6日 |
第1回、鍼灸トポロジー学武(まなぶ)会学術大会が開催される。 |
昭和55年(1980年) |
妻: キヌ病没 享年68才 |
昭和56年(1981年) |
第32回日本東洋医学会にて学術総会会頭を務める。 |
昭和57年(1982年) |
講談社 「日本医科学大事典」 に東洋医学の項を執筆(70才) |
昭和58年(1983年) |
「医師東洋医学研究会」を「公益財団法人 東方医療振興財団 日本東方医学会」に改組、改称。 (医師東洋医学会の歯科部会の方は日本歯科東洋医学会となる)小田原市功労賞(東洋医学の普及発展に貢献)を受賞。 |
昭和60年(1985年) |
日本東方医学会学術誌『東方医学』創刊。 |
昭和63年(1988年) |
世界医学気功学会(北京)副主席(77才) |
平成元年(1989年) |
11月、ベトナム戦争におけるソンミ村事件に心を痛め、小田原の寺院、東泉院に「何のために死んだのか判らない人たちのために捧ぐる碑」を造立。 11月20日、肝臓癌のため、間中病院にて死去。(享年78才) |
※写真は、東洋鍼灸専門学校所蔵
※オクツ薬局所蔵の略年譜に補筆修正
「間中喜雄先生の著書目録について」矢数道明(1990『漢方の臨床』第37巻2号より抜粋)
【著書:計28部】
1.医道の日本社(10部)
・カイロプラクティック(訳本) 昭和27
・鍼術入門講座 (ヘルベルト・シュミット共著) 昭和29.12.15
・随筆・鍼・灸・漢方 昭和37.7.1
・内科的疾患の神経領帯療法 昭和40
・鍼灸臨床医典 昭和45.3.15
・奇穴図譜(訳本) 陸・朱編著 昭和46.6.10
・推拿療法(訳本) 趙正山編著 昭和46.12.10
・かっぱ随筆 霊界からの手紙 昭和55.9.15
・平田式十二反応帯熱針刺激療法 昭和57.3.1
・ちぐあん随筆 そろばんのむだ玉 昭和63.12.1
2.主婦の友社(4部)
・灸と針の効用 昭和39.5.31
・間中喜雄博士の灸とハリ 昭和46.1.20
・推拿(ツイナア)の効用と実際 中国式あんま療法(英文も) 昭和47.8.15
・耳針のすべて 昭和(詳細時期、不記載)
3.創元社(3部)
・むんてら 昭和38.6.10
・肩こりと腰痛 昭和46
・針灸の理論と考え方 昭和46.2.20
4.東洋医学社(1部)
・坐骨神経痛の治療(孔版) 昭和27.7.1
5.中国人民衛生出版社(1部)
・針灸入門講座(中文翻訳)『針術的近代研究』 昭和33.6.15
6.久保書店(2部)
・病気の自己診断の手引 昭和36 金剛社
・PWドクター -沖縄捕虜記- 昭和37.9.13
7.朝日新聞社(1部)
・医学は人を救っているか -臨床の現場で- 昭和38
8.ごま書店(1部)
・お灸の研究 昭和51
9.鍼灸トポロジー学会十五周年記念 論文集編集委員会 雄渾社協力(1部)
・間中喜雄論文集 昭和63.12.17
10.台湾出版社(1部)
・灸穴治療法(中文翻訳)
11.Roading Book Co. (1部)
・Chaising the Dragon‘s Tail(英文)
12.General Printing Co.
・L‘acupunuture a vol d’oiseau(仏文)
13.Weatherhill Inc.
・Laguman‘s Guide to acupuncture(英文)
以上の28部に含まれない、間中先生の随筆集3冊の中に採用していない随筆は下記の通り。
『日本医科芸術クラブ十周年記念文集』の随筆集『ゆかり』式場隆三郎氏編集 金剛社 昭和38.1.31
☞この『ゆかり』に投稿された間中先生の随筆の題名は「尾」。
他に東洋医学関係者では大塚敬節氏、矢数道明氏、操体法の橋本敬三氏も寄稿している。
日本医家芸術クラブは2023年現在も存在する。https://www.ika-geijyutsu.jp/
海外出張の記録 ※昭和50年3月~昭和63年10月までの記録(北里大学研究員としての出張)
1.昭和50.3.16~29 中国医学国際シンポジウム (アメリカ)
2.昭和50.6.18~20 アジア鍼灸学術会議に出席 (韓国)
3.昭和51.10.26~30 国際東洋医学学術大会で講演 (韓国)
4.昭和52.4.30~5.7 中医学会に出席 (香港)
5.昭和53.10.6~13 ソウル市三大学にて講義 (韓国)
6.昭和54.4.27~30 東洋医学協会、ソウル大会で講演 (韓国)
7.昭和56.10.9~18 北京中医学院その他と学術交流 (中国)
8.昭和57.8.8~15 北京中医学院並びに桂林中医学院で講演 (中国)
9.昭和59.8.6~15 中国針麻酔及鍼術学会(第二回国際討議会)で発表 (中国)
10.昭和59.10.22~25 日中友好医院開院式招待出席 (中国)
11.昭和60.6.30~7.14 鍼灸術講義(出版社主催の鍼セミナー) (アメリカ)
12.昭和60.8.15~18 第七回韓日高麗手指鍼学術セミナー特別講演 (韓国)
13.昭和61.10.7~11.2 鍼術セミナーの講演 (アメリカ)
14.昭和61.11.12~29 Academic Seminar for Study on. Acupuncuture Regulation 講演 (中国)
15.昭和61.12.26~1.8 香港鍼灸界との交流、広州医学院で講義 (香港・中国)
16.昭和62.10.8~14 第一回国際活血化瘀学術会議に出席 (中国)
17.昭和63.4.8~20 鍼灸セミナー招待講演 (アメリカ)
18.昭和63.10.10~13 第一回国際医学気功学術交流会議に出席 (中国)
※北里大学からの出張は、上記の計18回であり、それ以外は下記の通り。
・昭和45.11.14 ザギ経済貿易大臣が、フランス語の「鍼術入門講座」を読み、
進行性筋萎縮症を患った息子の往診を強く希望した為、エジプト・カイロに向かう。
(『医道の日本』昭和45年2月号に報告が記載)
間中先生の告別式の折に挨拶状に添えられた、間中家で作られた略歴書の記載内容より
・昭和34 国際針術学会で講演 (フランス)
・昭和55 世界総合医療学術会議総会で講演 (オランダ)
・その他の海外の学会発表や講演として、フランス、スペイン、エジプト、西ドイツ、アメリカ、
カナダ、ブラジル、メキシコ、ウルグアイ、アルゼンチン、中国、香港、フィリピン、韓国が追記されている。
・余談ではあるが、『育児の百科』などの著書で知られる京都帝国大学医学部出身の小児科医で、評論家としても知られる松田道雄氏は遠戚にあた
る。(『国手 間中節斎』P27参照)
文責:日本東方医学会学術委員 竹下有 2024.1.1
間中喜雄先生について
間中先生は明治44年4月23日神奈川県小田原市に生まれた。
青少年期から天才のほまれ高く、刻苦努力の上にいつも温かい人情が豊かに、
気宇壮大で朗々を呼び幽玄を洞察する眼光は生涯かわらなかった。まことにまれなひとである。
京都帝国大学医学部卒業後、満州沖縄の軍務と終戰の後、 郷里で間中外科医院(明治39年.初代間中直七朗)を継がれ、
間中病院を開設される(後に特定医療法人温知会に改組)。
この間、小田原市教育委員会員、小田原市医師会長となる。 外科学界でもすぐれた名手であった。
昭和25年日本東洋医学会設立に参加された以後、東洋医学発展の為に全力をつくされた。
東洋針灸専門学校長、北里研究所東洋医学研究所客員部長となり永年にわたって国内はもとよりの学会頭であったが(昭和56年)、
国際的には東洋医学関係学会(フランス、ドイツ、オランダ、中国、台湾、韓国、香港、スペイン、アメリカ、カナダ、南米等)に
日本を代表して思い起こせない程に数多く、二十数回もその国の言葉で講演を行う驚異的な努力と才能であった。
日本医師会最高優功賞、神奈川県医師会衛生功労賞、小田原市功労賞を相ついで受ける。
世界医学気功学会(北京)で副首席となる。(1989年) 特記すべきは 東洋医学を 現代の科学の進歩発展途上に創造的にとらえ
おのずから東洋医学と西洋医学の結合を情報医学として予見された (トポロジ-医学,人体X信号系.易経と DNA 構造の相似性等)。
日本の「間中」ではなく世界の「マナカ」として有名であったが、 学問の世界だけではなく文章、絵画、彫刻、語学の面に於いても
その特異的な智能のスバラシサには驚く許りである。
永年精力的な使命感に充ちた活動を休みなく続けられる中にも、この十数年間の日々は医師として みずからの肝癌と対決し.
先生のかねて研究される ”気”によって肝癌を超克される輝かしい貴とい毎日であった。
平成元年11月20日享年78才で、わずか2日間の自らの入院で大往生された。
特定医療法人 温知会 間中病院 ( 小田原市 本町) は 間中喜雄先生が先々代の 間中直七郎先生(明治13年生,大正2年.間中外科病院)の
あとを継ぎ現在の間中病院の前身を築かれた。 只今は、理事長を長男の間中純也氏が東大外科から帰りつがれ.
御次男信也氏は帝京大学脳外科教授から当院長になられた。 最先端医療に東洋医学的視点を加えられ.
間中節子氏 ( 純也氏夫人)は聖心女子大から東大保健学科に学士入学されて 看護師.保健師.検査技師の資格をとり
現代の医療.介護.看護.福祉等と複雑な医業経営の中心で事務局長として活動されておられる。
御三男の 松岡賢也氏は父君喜雄氏の母校京都大医を出られ父君のユニ-ク なオリジナリテをつぎ
靜岡市八千代町 にて開業され東洋医学の新境地をひらいておられる。
松岡伯靑先生 1990年執筆記事より
「間中喜雄先生 追想集」(「東方医学」Vol6 No.1 1990より)
「間中賞の歴代受賞者」1986年~2008年(第1回~第22回)
「間中賞」とは、『医道の日本』誌が、1986年から2008年まで、「鍼灸医学の発展に寄与する独創的な論文や著作、活動」 に対して、毎年
表彰したものである。間中先生は第4回までご存命であり、間中先生亡き後は鍼灸界の著名人や、高弟であった吉元昭治先生が中心となって
間中賞選考委員会を設置し、第22回まで行われた。
- 広瀬滋之先生 略歴他
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広瀬滋之先生を偲んで(2010年12月25日発行「東方医学」誌 ―Vol.26 No.3 2010- より)
広瀬滋之先生 略歴他
<略年譜>
昭和19年(1944年) |
愛知県・奥三河地方の足助(あすけ)町(現豊田市)に生まれる。 | |
昭和45年(1970年) |
名古屋大学医学部卒業。その後、名古屋掖済会病院、名古屋大学医学部小児科、中京病院小児科に勤務。 | |
昭和51年(1976年) |
京都・聖光園細野診療所に勤務。 | |
昭和53年(1978年) |
刈谷総合病院(現:刈谷豊田総合病院)小児科部長。 |
|
平成元年(1989年) |
刈谷市内に医療法人広瀬クリニックを開院。 | |
平成21年(2009年) |
日本東方医学会会長 | |
平成22年(2010年) |
7月16日 逝去 |
<学会等での主なご活動>
日本東洋医学会代議員、和漢医薬学会評議員、日本東方医学会会長。
日本小児漢方懇話会、三河湾臨床漢方セミナー、統合医療セミナーを主宰。
<著書>
『漢方薬の選び方・使い方』(医学書院)、『漢方で治す』(海越出版社)
『0歳児からの漢方相談室』『老化を防ぐ漢方治療』『困った時の漢方治療』『癌!漢方併用治療で生き抜く』(ともに光雲社)
『アトピーは統合医療で良くなる』(みずほ出版新社)、『治す力、治す知恵』(文芸社)
※医療関係者向けサイト「漢方スクエア」より転載
広瀬滋之先生を偲んで (2010年12月25日発行「東方医学」誌 ―Vol.26 No.3 2010- より)
『前会長広瀬滋之先生を偲んで』
日本東方医学会名誉会長 谷 美智士
広瀬先生は稀にみる東方医学的に多彩な技量を持った方でした。日本東方医学会の初代会長は、間中善雄先生、その3代目の会長に広瀬先生が推薦されたのを受けて、私が3年前の年の暮れ、会長就任の依頼をしました。銀座のとある自然食レストランで、食事をしながらじっくり話し合いました。雨が激しく降る夜のことでした。 広瀬先生の多方面でのご活躍の様子をみて、1つの枠にとらわれない本学会の性格に最も相応しい人だと考えたからです。また、私にしても、民間療法を含め、世にたくさんある玉石混淆の中から、かくれた玉を取り出し、共にみがいて、広く知らしめることは本学会の使命と一致します。 それが会長に就任されて1年余の後に他界されるとは、とても思われない、いつものバイタリティあふれるお姿で、2月の学会でも元気はつらつみごとに会長の役を果たされました。 今思うと、あの時すでに、ご自分のことを良く認知されながら、残された余命を世のため、人のために使おうという強い決意を持っておられたのだと感じます。 広瀬先生、あなたと共にもっともっと仕事がしたかった、と残念な気持ちでいっぱいです。聞くところによりますと最後まで、臨床医としての立場を貫かれたということです。残された私共も、あなたに習って後任の上馬塲会長と共に最後まで医師としての任務を全うしたいと思います。 広瀬先生のご冥福を祈りつつ・・・
『善人薄命!! 日本は、非常に惜しい人を失いました。』
日本東方医学会会長
富山大学和漢医薬学総合研究所未病研究部門 客員教授 上馬塲 和夫
広瀬先生ほど、本当の医療を追求した人物は、これまで日本にはいなかったと思います。東洋医学会でも、東方医学会でも、とにかく良いものは満遍なく取り入れておられました。そのため、いずれの学会でも、重鎮として活躍されておられました。東洋医学会の他の著名人と比較して、東方医学会にも関係されている姿は、医師として私自身は非常に尊敬させられていました。また、保険には利かない温熱療法でも、有効性があると信じられると診療の中に入れられ、さらに、公的資格があろうとなかろうと、本当によいものは良いとして、整膚を医院の中でおこなわれている姿も、本当に人を救うというミッションを貫徹されているのだなと感激させられておりました。このように人に貴賎をつけない非常に平等な見方をされる、すばらしい理想の医師像を広瀬先生に私自身は観ておりましたので、訃報を聞いて残念でなりません。でも、訃報を聞きながらも、実際に病気をされている姿を見ていないものですから、今にも、「やー」というふうに我々の目の前にいつか現れるのではないかと、ついつい思ってしまいます。学会でまたお会いできるような錯覚を感じてしまいます。残されたご家族だけでなく、多くの患者さんは、我々以上に心が折れておられることと推察いたします。整膚の徐先生なども後援者を失われて力を落としておられることと思います。広瀬先生が開催されてきた統合医療セミナーを卒業した医師たちや、日本東方医学会の、私も含めた統合医療に理解のある医療者たちが、広瀬先生の活動を少しづつでも継続していこうと考えておりますので、今後、広瀬先生の御遺志は貫徹されることでしょう。広瀬先生、天国から、見守っていてください。広瀬先生のご冥福を祈念して、追悼文とさせていただきます。
『広瀬滋之先生の追悼の意』
東京大学食の安全研究センター 特任教授未病医学研究センター 所長 天野 暁(りゅういん)
一度しかお会いしておりませんでしたが、とても明るく、元気で、笑顔が印象的でした。
謹んでお悔やみ申し上げますとともに、心よりご冥福をお祈りいたします
『日本東方医学会会長 広瀬滋之先生を偲ぶ』
日本東方医学会認定中医薬剤師 落合 富雄
人生はどんな天変があるか分からない。あれほど熱心に研究に打ち込んでいたのに、時の流れの中で仕事一筋だった先生が亡くなられたことを知りました。小児科医として出発した先生は、最後には高齢者のガンを中心とした医療に変られました。一人の人間の生き方を教えてくれました。小生が東方医学会に参加したのは当時のカネボウ薬品の学術部長の誘いであった。1985年の全電通労働会館で行われた第3回東方医学会では、座長を務めた記憶がある。その時、最も深い感銘を受けたのは菊地養生園の竹熊宣孝先生の「土からの医療」であった。同時に行われた四川中医学院の徐礎江先生の薬膳の特別講演が心に残っている。「異なった季節には異なった薬膳が行われる」は、季節と環境に対する対応の難かしさを教えられこれが小生のライフテーマになっている。自分が先天的な体質虚弱だったからこそ中医学の薬膳がベースになり、西洋医学の病態生理学と素問の上古天真論編との結合を心に留めた養生法を心掛けている。中成薬もよしとして自分の健康を守って行きたい。統合失調症なる病名が最近目立つがわれわれ高齢者には、東方医学の考え方のほうが合っているように思える。広瀬先生の訃報に接して今更ながら自分を大事にしなければと思う。先生の病人を救いたいという夢は必ずや次の人達に受け継がれて行くでありましょう。東方医学会のために尽力された先生に敬意を表して追悼の言葉といたします。
『追悼 広瀬滋之先生』
帯津 良一
才気煥発、いつも軽快なフットワークの広瀬滋之先生だけに、訃報に接したときは本当に驚きました。
代替療法の台頭から統合医学へ、さらにはホリスティック医学へと向かう世界の潮流も、その方向性は定まったとはいえ、まだまだ逆風もそれなりに吹いています。 『坂の上の雲』の「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」といったところでしょうか。 この大事な時期に知性あふるる行動派の同志である広瀬滋之先生を失うことは、じつに悲しいことです。 残念でなりません。
しかし、ご安心下さい。先生の切り開かれた、この道を灯を高く掲げて鋭意邁進する所存です。
先生、また会いましょう! 道中ご無事で。
『広瀬滋之先生の死を悼んで』
日本東方医学会 学術委員 川口 毅
広瀬先生は1970年に名古屋大学医学部を卒業され小児科を専攻され、
研鑽に努め西洋医療に漢方を交えたわが国においてもこの分野の専門家としてご活躍されました。
1989年からは患者さんのための統合医療を目指して医療法人広瀬クリニックを開設され
実践的な医療の中で①医も亦自然に従う②抜苦与薬をモットーに各種の小児科疾患や急性疾患をはじめ慢性疾患ではアトピー性皮膚炎、尋常性乾癬、
関節リウマチ、肝硬変、糖尿病ならびに各種のがん治療などの治療を手がけてこられました。
このたび先生が急逝されたことは東方医学においても大きな損失であるのみならず、
これら多くの患者さんにとっても心の支えを失ったことと思います。
先生の安らかなご冥福を心からお祈り致します。
『広瀬滋之先生を偲ぶ』
東京女子医科大学附属青山女性・自然医療研究所自然医療部門 川嶋 朗
広瀬先生と最後にお会いしたのは2010年2月の日本東方医学会学術大会でした。
優しいにこやかなお顔と悪性腫瘍のディベートの演者として張り切っていらっしゃったお姿を今も鮮明に覚えており、
まさかその数ヵ月後に帰らぬ人になってしまわれるとは想像だにしませんでした。
広瀬先生は、統合医療医としては数少ない小児科医で、漢方で有名な方でしたが、
非常に柔軟な頭の持ち主で、漢方以外の相補・代替医療にも精通されておりました。
2007年には、地元刈谷で第1回統合医療セミナーin名古屋を主催されました。
その際に私も東京から参加させていただきましたが、広瀬先生から私のような若輩が統合医療(レビューと実践)という講演の大役を仰せつかり、
大変感激するとともに、身の引き締まる思いを感じました。 そのお忙しい広瀬先生が、日本東方医学会の会長にご就任され、多忙を極めていらっしゃっただろうと想像すると、ご逝去が悔やまれます。 最も充実した時期に、この世を去られ、さぞ不本意であったかと推し量られ、
その思いを我々が継がねばならないと感じております。 広瀬先生、先生の思いを無にしないよう、日本の医療改革に取り組んでまいりますので、
高い空からご支援を賜りますようお願い申し上げます。
『広瀬滋之先生追悼の意』
鈴鹿医療科学大学鍼灸学部鍼灸学科 学部長 佐々木 和郎
東方医学会学術委員会にてお会いしたのが初めての出会いである。
私の所属する大学が三重県鈴鹿市で、広瀬先生は愛知県ということで隣の県であり、最初にお会いしたときより親近感を覚えたことを記憶している。
また、お話しをする内に東洋医学について幅広い見識と知識を持っていらっしゃる事に驚き、私も近々、
訪問も兼ねて勉強しに行こうと考えていたところであった。
また、近隣でもあり学会活動を含めて協力をしなければと思っていた矢先でもあった。
慎んで先生のご冥福をお祈りいたします。
『広瀬先生の思い出』
下谷 武志
数年前、広瀬クリニックに伺った際のこと、院長室から眼前にひろがる結構な広さの畑をさして、
先生は、休みの日はここで土を相手にすごすんだと言って、少々てれたような表情を浮かべておられました。
日常の診療業務や、学会活動など、人と会う事で多忙な先生は、こういうすごし方が、心休まるのだろうと思いました。
その日は私の友人を先生に紹介して終りのはずだったのですが、先生御自慢の天降石の風呂にぜひ入っていけ、という事で、
図々しくも風呂をふるまわれてしまいました。 おかげで帰りはいつまでも体が温まっていた覚えがあります。
そういうわけで、広瀬クリニックの私の印象は「畑」と「ポカポカ」に集約されてしまいました。
しかし、今から考えると、これが結局、広瀬先生の魅力だったのでは、と思います。
今はただ、広瀬先生の生前の御功績をたたえるとともに、先生の御冥福を祈るばかりです。
『広瀬滋之先生を悼んで』
昭和薬科大学病態科学研究室 教授 田代 眞一
「広瀬先生がお悪いようだ」、ある方からそうお聞きして、「お見舞いに行きたいから、どこに入っておられるのか、お伺いしてもいいものか、
教えて」とお聴きしたその週でした。突然ファクシミリが訃報を教えてくれました。ショックでした。
先生には、大変お世話になりました。患者さんのためなら、できることは何でもしようという姿勢をいつもお持ちでした。
先生が主宰されていた三河湾セミナーで、いつものように深夜まで呑みながら議論をしていた時、
「子供が五苓散を飲んでくれないときに坐薬で入れるんだけど、動態はどうなってるのかなあ」と質問をいただいたことがあります。
同席の産科の先生からもつわりの人に下から入れるということ、これらが引き金となって、
私の直腸投与を初めとする漢方の投与経路の研究が始まりました。先生は、漢方の権威でありながら、
日本で使われることのない台湾の生薬を積極的にお使いになったり、避けることなく癌の世界にお取り組みになったり、
アロマの部屋を自院にお造りになったり、と、何にでも挑戦されるお姿にいつも感銘を受けておりました。
特に、大分の岩石の粉が健康にいい、自分でも効果を確かめていると仰って、機序を考えてくれないかなとの要請をいただきました。
最初はそんな神がかりのような…と、ちょっと研究のお手伝いをすることに躊躇いを感じたものでした。ところが…です。
マウスに石粉を投与すると、何と体重が増えたのです。体内に石が残って重くなったんじゃない?…、
ところが、石粉が腸内細菌叢の増殖を抑え、アミノ酸の浪費を抑え、体内蛋白質の増加を招いているという結論、
何事も臨床の事実から始めるべきだと痛感しました。
まず患者さんのために、いいと思うことを何でもやってみる、そんな広瀬先生の姿勢を、今、改めて大事にしたいと思っています。
先生、今、ゆっくりと、安らかにお休み下さい。合掌。
『広瀬先生のご逝去を悼んで』
阪神漢方研究所付属クリニック名誉所長 長瀬 千秋
広瀬先生は名古屋大学医学部を卒業後、小児科を専攻され、刈谷豊田病院に勤務された。
漢方を学ぶため、昭和51年から2年間、京都の細野診療所に勤務され、漢方、鍼灸を実践された。
その後、刈谷総合病院小児科部長になられ、現代医学と漢方を統合した新しい医療を実践された。
平成元年、開業され、多くの患者さんのために尽された。私は昭和54年から3年、細野診療所に勤務し、漢方を勉強した。
だから直接、広瀬先生とは一緒になったことはない。
私は昭和57年、大阪鍼灸専門学校附属診療所の院長になり、7年間漢方診療に携わった。
平成元年、兵庫県立東洋医学研究所に転勤し、平成19年に定年退職した。同じ細野漢方の継承者として、広瀬先生には同感し、敬意を感じていた。
平成22年、名古屋で日本東洋医学会学術総会があり、広瀬先生もご苦労があったと思う。
会場に行くと、広瀬先生は欠席しておられ、体調が悪いのかと思ったが、後で前立腺癌の脳転移で入院とのことだった。
大変なお仕事をされ、その後、病魔に侵され、しばらくして、亡くなられたとの報に接した。67歳であった。
心から広瀬先生のご冥福を祈る。
『広瀬先生のご逝去を悼んで』
長瀬 眞彦
当会の会長でいらっしゃった広瀬滋之先生は、その明るいお人柄で多くの先生方に慕われておられました。
かくいう私もそのうちの一人で、数年前に東方医学会で症例発表をさせていただいた時にも私の稚拙な発表にご質問下さり、
その後先生の著書を何冊も送って下さいました。私のような当時下っぱであった者にもとても丁寧に親切に対応していただき、
感激した記憶があります。同様な経験をした先生も数多くいらっしゃることでしょう。
おそらく一期一会という事を非常に大切にされていたのではないでしょうか?
その後私が携わっている日本胎盤臨床研究会の仕事でも個人的にお会いさせていただき、その時も、その朗らかさ、明るさ、ユーモアのセンスに
感銘を受けました。新しい治療を取り入れるときには、必ず奥様もご同伴され、その説明をご一緒に聞かれるとのことで
「いろいろと大変じゃないですか?」と冗談半分に伺ったら「将を射んと欲すればまず馬を射よだよ。」と
子供のように笑って話されたそのお顔は今も忘れることができません。
また死に向かう姿勢として「天国に行くのにくよくよと下を向いて暗くしてたってしょうがない。明るく上を向いて元気で行こうではないか。」
というような趣旨の事を話されていたのを記憶しています。
先生はそのお言葉どおり明るく元気に行かれたのだと思います。
ありがとうございました。広瀬先生のご冥福を心からお祈り申し上げます。
『広瀬先生のご逝去を悼んで』
医師、トータルヒーリングセンター 自然療法部長 中村 裕恵
広瀬滋之先生に、最初にお声をかけていただいたのは、東方医学会でホメオパシーのポスターセッションの演題を初めて発表したときでした。
広瀬先生はじめ、沢山の大御所の先生がたに熱心にお聞きいただき、私のような若輩者には光栄すぎ、非常に緊張したものでした。
演題発表直後に、雲の上のような存在の広瀬滋之先生に、笑顔でお声をかけていただいた時の感動と、
先生のお優しい笑顔は、忘れられない私の宝の一つであります。それ以後、先生ご主催の中京地区での勉強会に講師としてもお招きいただき、
私にとっては身に余るような経験が続いておりました。広瀬先生との、もっと長い時を一緒に交わしていけると思っておりましたので、
先生のご逝去は悲しみ以外の表現に変えることは出来ませんが、熱心で新しい事に挑戦し続ける広瀬先生の、明るいお姿は私の理想でもあります。
先生の統合医療へかける情熱を、可能な限り引き継いでいけますよう、日頃の臨床に精進を重ねるとともに、
ご冥福を心よりお祈り申し上げたいと存じます。
『広瀬滋之先生を偲ぶ』
朝霧高原診療所 山本 竜隆
広瀬先生は、西洋医学、東洋医学の両面において、深く幅広い知識と経験があり、常に多角的な観点で医療を実践されてきたという印象があります。医療は実学であり、理論よりも実践、何よりも患者さんが喜んでくれることを目指されていたと思います。
また私のような若輩医療従事者に対しても、常に優しい笑顔で向き合ってくれました、そして、場を和ませる雰囲気、感性もお持ちでした。
日本東方医学会のみならず、様々な学会や団体で要職を務められており、多くの方に、勇気や優しさ、自信を与えてくださったように思います。
あまりにも急な事で、どうしても、また学会でお会いできるような気がしてなりません。
広瀬先生は、医療従事者としてのみならず、人として学ばせていただくことの多い大先輩でした。
そして医療の発展にご尽力いただき、本当に有難うございました。
広瀬滋之先生のご冥福をお祈りいたします。