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広瀬滋之先生について - 一般財団法人 東方医療振興財団 日本東方医学会

広瀬滋之先生 略歴

<略年譜>

Hirose Dr. picture 

昭和19年(1944年)

愛知県・奥三河地方の足助(あすけ)町(現豊田市)に生まれる。

昭和45年(1970年)

名古屋大学医学部卒業。その後、名古屋掖済会病院、名古屋大学医学部小児科、中京病院小児科に勤務。

昭和51年(1976年)

京都・聖光園細野診療所に勤務。

昭和53年(1978年)

刈谷総合病院(現:刈谷豊田総合病院)小児科部長。

平成元年(1989年)

刈谷市内に医療法人広瀬クリニックを開院。

平成21年(2009年)

日本東方医学会会長

平成22年(2010年)

7月16日 逝去


<学会等での主なご活動>

日本東洋医学会代議員、和漢医薬学会評議員、日本東方医学会会長。

日本小児漢方懇話会、三河湾臨床漢方セミナー、統合医療セミナーを主宰。

 

<著書>

『漢方薬の選び方・使い方』(医学書院)、『漢方で治す』(海越出版社)

『0歳児からの漢方相談室』『老化を防ぐ漢方治療』『困った時の漢方治療』『癌!漢方併用治療で生き抜く』(ともに光雲社)

『アトピーは統合医療で良くなる』(みずほ出版新社)、『治す力、治す知恵』(文芸社)

 

※医療関係者向けサイト「漢方スクエア」より転載

広瀬滋之先生を偲んで (2010年12月25日発行「東方医学」誌 ―Vol.26 No.3 2010- より)

 

『前会長広瀬滋之先生を偲んで』

日本東方医学会名誉会長 谷 美智士

 

 広瀬先生は稀にみる東方医学的に多彩な技量を持った方でした。日本東方医学会の初代会長は、間中善雄先生、その3代目の会長に広瀬先生が推薦されたのを受けて、私が3年前の年の暮れ、会長就任の依頼をしました。銀座のとある自然食レストランで、食事をしながらじっくり話し合いました。雨が激しく降る夜のことでした。 広瀬先生の多方面でのご活躍の様子をみて、1つの枠にとらわれない本学会の性格に最も相応しい人だと考えたからです。また、私にしても、民間療法を含め、世にたくさんある玉石混淆の中から、かくれた玉を取り出し、共にみがいて、広く知らしめることは本学会の使命と一致します。 それが会長に就任されて1年余の後に他界されるとは、とても思われない、いつものバイタリティあふれるお姿で、2月の学会でも元気はつらつみごとに会長の役を果たされました。 今思うと、あの時すでに、ご自分のことを良く認知されながら、残された余命を世のため、人のために使おうという強い決意を持っておられたのだと感じます。 広瀬先生、あなたと共にもっともっと仕事がしたかった、と残念な気持ちでいっぱいです。聞くところによりますと最後まで、臨床医としての立場を貫かれたということです。残された私共も、あなたに習って後任の上馬塲会長と共に最後まで医師としての任務を全うしたいと思います。 広瀬先生のご冥福を祈りつつ・・・ 

 

 

善人薄命!! 日本は、非常に惜しい人を失いました。』

日本東方医学会会長                

富山大学和漢医薬学総合研究所未病研究部門 客員教授      上馬塲 和夫

 

 広瀬先生ほど、本当の医療を追求した人物は、これまで日本にはいなかったと思います。東洋医学会でも、東方医学会でも、とにかく良いものは満遍なく取り入れておられました。そのため、いずれの学会でも、重鎮として活躍されておられました。東洋医学会の他の著名人と比較して、東方医学会にも関係されている姿は、医師として私自身は非常に尊敬させられていました。また、保険には利かない温熱療法でも、有効性があると信じられると診療の中に入れられ、さらに、公的資格があろうとなかろうと、本当によいものは良いとして、整膚を医院の中でおこなわれている姿も、本当に人を救うというミッションを貫徹されているのだなと感激させられておりました。このように人に貴賎をつけない非常に平等な見方をされる、すばらしい理想の医師像を広瀬先生に私自身は観ておりましたので、訃報を聞いて残念でなりません。でも、訃報を聞きながらも、実際に病気をされている姿を見ていないものですから、今にも、「やー」というふうに我々の目の前にいつか現れるのではないかと、ついつい思ってしまいます。学会でまたお会いできるような錯覚を感じてしまいます。残されたご家族だけでなく、多くの患者さんは、我々以上に心が折れておられることと推察いたします。整膚の徐先生なども後援者を失われて力を落としておられることと思います。広瀬先生が開催されてきた統合医療セミナーを卒業した医師たちや、日本東方医学会の、私も含めた統合医療に理解のある医療者たちが、広瀬先生の活動を少しづつでも継続していこうと考えておりますので、今後、広瀬先生の御遺志は貫徹されることでしょう。広瀬先生、天国から、見守っていてください。広瀬先生のご冥福を祈念して、追悼文とさせていただきます。 

 

 

広瀬滋之先生の追悼の意』

東京大学食の安全研究センター 特任教授未病医学研究センター 所長 天野 暁(りゅういん)

                     

一度しかお会いしておりませんでしたが、とても明るく、元気で、笑顔が印象的でした。

謹んでお悔やみ申し上げますとともに、心よりご冥福をお祈りいたします

 

 

『日本東方医学会会長 広瀬滋之先生を偲ぶ』

日本東方医学会認定中医薬剤師 落合 富雄

 

人生はどんな天変があるか分からない。あれほど熱心に研究に打ち込んでいたのに、時の流れの中で仕事一筋だった先生が亡くなられたことを知りました。小児科医として出発した先生は、最後には高齢者のガンを中心とした医療に変られました。一人の人間の生き方を教えてくれました。小生が東方医学会に参加したのは当時のカネボウ薬品の学術部長の誘いであった。1985年の全電通労働会館で行われた第3回東方医学会では、座長を務めた記憶がある。その時、最も深い感銘を受けたのは菊地養生園の竹熊宣孝先生の「土からの医療」であった。同時に行われた四川中医学院の徐礎江先生の薬膳の特別講演が心に残っている。異なった季節には異なった薬膳が行われる」は、季節と環境に対する対応の難かしさを教えられこれが小生のライフテーマになっている。自分が先天的な体質虚弱だったからこそ中医学の薬膳がベースになり、西洋医学の病態生理学と問の上古天真論編との結合を心に留めた養生法を心掛けている。中成薬もよしとして自分の健康を守って行きたい。統合失調症なる病名が最近目立つがわれわれ高齢者には、東方医学の考え方のほうが合っているように思える。広瀬先生の訃報に接して今更ながら自分を大事にしなければと思う。先生の病人を救いたいという夢は必ずや次の人達に受け継がれて行くでありましょう。東方医学会のために尽力された先生に敬意を表して追悼の言葉といたします。

    

 

『追悼 広瀬滋之先生』

帯津 良一

 

才気煥発、いつも軽快なフットワークの広瀬滋之先生だけに、訃報に接したときは本当に驚きました。

 代替療法の台頭から統合医学へ、さらにはホリスティック医学へと向かう世界の潮流も、その方向性は定まったとはいえ、まだまだ逆風もそれなりに吹いています。 『坂の上の雲』の「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」といったところでしょうか。 この大事な時期に知性あふるる行動派の同志である広瀬滋之先生を失うことは、じつに悲しいことです。 残念でなりません。 

しかし、ご安心下さい。先生の切り開かれた、この道を灯を高く掲げて鋭意邁進する所存です。 

先生、また会いましょう! 道中ご無事で。   

 

 

広瀬滋之先生の死を悼んで』

日本東方医学会 学術委員 川口 毅

 

 広瀬先生は1970年に名古屋大学医学部を卒業され小児科を専攻され、

研鑽に努め西洋医療に漢方を交えたわが国においてもこの分野の専門家としてご活躍されました。 

1989年からは患者さんのための統合医療を目指して医療法人広瀬クリニックを開設され 

実践的な医療の中で①医も亦自然に従う②抜苦与薬をモットーに各種の小児科疾患や急性疾患をはじめ慢性疾患ではアトピー性皮膚炎、尋常性乾癬、

関節リウマチ、肝硬変、糖尿病ならびに各種のがん治療などの治療を手がけてこられました。 

 このたび先生が急逝されたことは東方医学においても大きな損失であるのみならず、

これら多くの患者さんにとっても心の支えを失ったことと思います。 

先生の安らかなご冥福を心からお祈り致します。 

  

 

『広瀬滋之先生を偲ぶ』

東京女子医科大学附属青山女性・自然医療研究所自然医療部門   川嶋 朗

 

 広瀬先生と最後にお会いしたのは20102月の日本東方医学会学術大会でした。

優しいにこやかなお顔と悪性腫瘍のディベートの演者として張り切っていらっしゃったお姿を今も鮮明に覚えており、

まさかその数ヵ月後に帰らぬ人になってしまわれるとは想像だにしませんでした。

広瀬先生は、統合医療医としては数少ない小児科医で、漢方で有名な方でしたが、

非常に柔軟な頭の持ち主で、漢方以外の相補・代替医療にも精通されておりました。

2007年には、地元刈谷で第1回統合医療セミナーin名古屋を主催されました。

その際に私も東京から参加させていただきましたが、広瀬先生から私のような若輩が統合医療(レビューと実践)という講演の大役を仰せつかり、

大変感激するとともに、身の引き締まる思いを感じました。  そのお忙しい広瀬先生が、日本東方医学会の会長にご就任され、多忙を極めていらっしゃっただろうと想像すると、ご逝去が悔やまれます。  最も充実した時期に、この世を去られ、さぞ不本意であったかと推し量られ、

その思いを我々が継がねばならないと感じております。 広瀬先生、先生の思いを無にしないよう、日本の医療改革に取り組んでまいりますので、

高い空からご支援を賜りますようお願い申し上げます。  

  

 

『広瀬滋之先生追悼の意』

鈴鹿医療科学大学鍼灸学部鍼灸学科 学部長 佐々木 和郎

 

東方医学会学術委員会にてお会いしたのが初めての出会いである。

私の所属する大学が三重県鈴鹿市で、広瀬先生は愛知県ということで隣の県であり、最初にお会いしたときより親近感を覚えたことを記憶している。

また、お話しをする内に東洋医学について幅広い見識と知識を持っていらっしゃる事に驚き、私も近々、

訪問も兼ねて勉強しに行こうと考えていたところであった。

また、近隣でもあり学会活動を含めて協力をしなければと思っていた矢先でもあった。

慎んで先生のご冥福をお祈りいたします。

 

 

『広瀬先生の思い出』

下谷 武志

 

数年前、広瀬クリニックに伺った際のこと、院長室から眼前にひろがる結構な広さの畑をさして、

先生は、休みの日はここで土を相手にすごすんだと言って、少々てれたような表情を浮かべておられました。 

日常の診療業務や、学会活動など、人と会う事で多忙な先生は、こういうすごし方が、心休まるのだろうと思いました。 

その日は私の友人を先生に紹介して終りのはずだったのですが、先生御自慢の天降石の風呂にぜひ入っていけ、という事で、 

図々しくも風呂をふるまわれてしまいました。 おかげで帰りはいつまでも体が温まっていた覚えがあります。 

そういうわけで、広瀬クリニックの私の印象は「畑」と「ポカポカ」に集約されてしまいました。 

しかし、今から考えると、これが結局、広瀬先生の魅力だったのでは、と思います。 

今はただ、広瀬先生の生前の御功績をたたえるとともに、先生の御冥福を祈るばかりです。 

 

 

広瀬滋之先生を悼んで』

昭和薬科大学病態科学研究室 教授  田代 眞一

 

「広瀬先生がお悪いようだ」、ある方からそうお聞きして、「お見舞いに行きたいから、どこに入っておられるのか、お伺いしてもいいものか、

教えて」とお聴きしたその週でした。突然ファクシミリが訃報を教えてくれました。ショックでした。

先生には、大変お世話になりました。患者さんのためなら、できることは何でもしようという姿勢をいつもお持ちでした。

先生が主宰されていた三河湾セミナーで、いつものように深夜まで呑みながら議論をしていた時、

「子供が五苓散を飲んでくれないときに坐薬で入れるんだけど、動態はどうなってるのかなあ」と質問をいただいたことがあります。

同席の産科の先生からもつわりの人に下から入れるということ、これらが引き金となって、

私の直腸投与を初めとする漢方の投与経路の研究が始まりました。先生は、漢方の権威でありながら、

日本で使われることのない台湾の生薬を積極的にお使いになったり、避けることなく癌の世界にお取り組みになったり、

アロマの部屋を自院にお造りになったり、と、何にでも挑戦されるお姿にいつも感銘を受けておりました。

特に、大分の岩石の粉が健康にいい、自分でも効果を確かめていると仰って、機序を考えてくれないかなとの要請をいただきました。

最初はそんな神がかりのような…と、ちょっと研究のお手伝いをすることに躊躇いを感じたものでした。ところが…です。

マウスに石粉を投与すると、何と体重が増えたのです。体内に石が残って重くなったんじゃない?…、

ところが、石粉が腸内細菌叢の増殖を抑え、アミノ酸の浪費を抑え、体内蛋白質の増加を招いているという結論、

何事も臨床の事実から始めるべきだと痛感しました。

まず患者さんのために、いいと思うことを何でもやってみる、そんな広瀬先生の姿勢を、今、改めて大事にしたいと思っています。

先生、今、ゆっくりと、安らかにお休み下さい。合掌。

 

 

『広瀬先生のご逝去を悼んで』

 阪神漢方研究所付属クリニック名誉所長  長瀬 千秋

 

 広瀬先生は名古屋大学医学部を卒業後、小児科を専攻され、刈谷豊田病院に勤務された。

漢方を学ぶため、昭和51年から2年間、京都の細野診療所に勤務され、漢方、鍼灸を実践された。

その後、刈谷総合病院小児科部長になられ、現代医学と漢方を統合した新しい医療を実践された。

平成元年、開業され、多くの患者さんのために尽された。私は昭和54年から3年、細野診療所に勤務し、漢方を勉強した。

だから直接、広瀬先生とは一緒になったことはない。

私は昭和57年、大阪鍼灸専門学校附属診療所の院長になり、7年間漢方診療に携わった。

平成元年、兵庫県立東洋医学研究所に転勤し、平成19年に定年退職した。同じ細野漢方の継承者として、広瀬先生には同感し、敬意を感じていた。

平成22年、名古屋で日本東洋医学会学術総会があり、広瀬先生もご苦労があったと思う。

会場に行くと、広瀬先生は欠席しておられ、体調が悪いのかと思ったが、後で前立腺癌の脳転移で入院とのことだった。

大変なお仕事をされ、その後、病魔に侵され、しばらくして、亡くなられたとの報に接した。67歳であった。

心から広瀬先生のご冥福を祈る。   

 

 

『広瀬先生のご逝去を悼んで』

長瀬 眞彦

 

 当会の会長でいらっしゃった広瀬滋之先生は、その明るいお人柄で多くの先生方に慕われておられました。

かくいう私もそのうちの一人で、数年前に東方医学会で症例発表をさせていただいた時にも私の稚拙な発表にご質問下さり、

その後先生の著書を何冊も送って下さいました。私のような当時下っぱであった者にもとても丁寧に親切に対応していただき、

感激した記憶があります。同様な経験をした先生も数多くいらっしゃることでしょう。

おそらく一期一会という事を非常に大切にされていたのではないでしょうか?

その後私が携わっている日本胎盤臨床研究会の仕事でも個人的にお会いさせていただき、その時も、その朗らかさ、明るさ、ユーモアのセンスに

感銘を受けました。新しい治療を取り入れるときには、必ず奥様もご同伴され、その説明をご一緒に聞かれるとのことで

「いろいろと大変じゃないですか?」と冗談半分に伺ったら「将を射んと欲すればまず馬を射よだよ。」と

子供のように笑って話されたそのお顔は今も忘れることができません。

また死に向かう姿勢として「天国に行くのにくよくよと下を向いて暗くしてたってしょうがない。明るく上を向いて元気で行こうではないか。」

というような趣旨の事を話されていたのを記憶しています。

先生はそのお言葉どおり明るく元気に行かれたのだと思います。

ありがとうございました。広瀬先生のご冥福を心からお祈り申し上げます。

 

 

『広瀬先生のご逝去を悼んで』

医師、トータルヒーリングセンター 自然療法部長 中村 裕恵 

 

 広瀬滋之先生に、最初にお声をかけていただいたのは、東方医学会でホメオパシーのポスターセッションの演題を初めて発表したときでした。

広瀬先生はじめ、沢山の大御所の先生がたに熱心にお聞きいただき、私のような若輩者には光栄すぎ、非常に緊張したものでした。

演題発表直後に、雲の上のような存在の広瀬滋之先生に、笑顔でお声をかけていただいた時の感動と、

先生のお優しい笑顔は、忘れられない私の宝の一つであります。それ以後、先生ご主催の中京地区での勉強会に講師としてもお招きいただき、

私にとっては身に余るような経験が続いておりました。広瀬先生との、もっと長い時を一緒に交わしていけると思っておりましたので、

先生のご逝去は悲しみ以外の表現に変えることは出来ませんが、熱心で新しい事に挑戦し続ける広瀬先生の、明るいお姿は私の理想でもあります。

先生の統合医療へかける情熱を、可能な限り引き継いでいけますよう、日頃の臨床に精進を重ねるとともに、

ご冥福を心よりお祈り申し上げたいと存じます。

 

 

広瀬滋之先生を偲ぶ』

朝霧高原診療所 山本 竜隆

 

 広瀬先生は、西洋医学、東洋医学の両面において、深く幅広い知識と経験があり、常に多角的な観点で医療を実践されてきたという印象があります。医療は実学であり、理論よりも実践、何よりも患者さんが喜んでくれることを目指されていたと思います。

また私のような若輩医療従事者に対しても、常に優しい笑顔で向き合ってくれました、そして、場を和ませる雰囲気、感性もお持ちでした。

日本東方医学会のみならず、様々な学会や団体で要職を務められており、多くの方に、勇気や優しさ、自信を与えてくださったように思います。

あまりにも急な事で、どうしても、また学会でお会いできるような気がしてなりません。 

広瀬先生は、医療従事者としてのみならず、人として学ばせていただくことの多い大先輩でした。

そして医療の発展にご尽力いただき、本当に有難うございました。

広瀬滋之先生のご冥福をお祈りいたします。