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間中喜雄先生について - 一般財団法人 東方医療振興財団 日本東方医学会

間中喜雄先生 略歴

<略年譜>

間中喜雄先生お写真2023年4月21日竹下先生メールより

明治44年(1911年)

4月23日

神奈川県足柄下郡小田原町にて、代々医師の家系に長男として誕生。

(日本図書刊行会『国手 間中節斎』に詳述)

父: 直七郎(外科医、明治39年創業、間中外科医院院長)母:乙女

大正12年(1923年)

小学5年終了後、小田原中学校へ入学。
9月1日 関東大震災を経験(12才)

昭和6年

(1931年)

静岡高等学校理乙卒業。

昭和10年(1935年)

京都帝国大学医学部卒業(24才)
父直七郎、病に倒れる

昭和10~12年

東京、順天堂医院及び和泉橋慈善病院(現:三井記念病院)にて外科学を研修。

昭和12年(1937年)

小田原にて間中外科医院を継承。第二代院長となる。その後、間中病院と改称。

小沢万代(20才)と結婚。(26才)

この頃、偶然間中外科医院に往診に来た矢数有道医師(1908-1946)と意気投合。その縁で、有道氏の兄である矢数道明医師、当時『漢方と漢薬』の編集者であった気賀林一氏と知り合い、以降、東洋医学の世界と深く関わることになる。(『漢方と漢薬』7巻8号(復刻版19巻)「山中漢方談」に詳述)

昭和12-17年

長男(純也)、次男(信也)、三男(賢也)誕生。
「知愚庵」のペンネームにて漢方誌に投稿開始。

※知愚庵というペンネームの由来については、それを聞いてきた相手を見て、「『浮世草子』の薮医竹庵をもじったもの」とか、「『論語』の“その知や及ぶべし、その愚や及ぶべからず”という語からとった。」などと答えていたが、名は定義でないからどうでもいいものだ、と、間中氏はいう。『そろばんのむだ玉』医道の日本社刊P207「名前のつけ方」参照

昭和16-21年

満洲・沖縄(宮古島)にて再び軍務に服す。 (陸軍軍医中尉)

昭和20年(1945年)

宮古島にて終戦、翌年の秋まで捕虜となる。(著書『PWドクター』に詳述)
父 :直七郎 死去(享年66才)

昭和21年(1946年)

復員し、小田原にて外科医、針灸研究家として医業活動再開。(35才)

昭和24年(1949年)

万代と協議離婚。 庄司キヌと再婚。(38才)

昭和25年(1950年)

日本東洋医学会創設の発起人となり(他の発起人は和田正系,藤平健,長濱善夫,矢数道明,細野史郎, 森田幸門,大塚敬節, 龍野一雄,山崎順,丸山昌朗)、評議員に就任。 この頃より鍼灸医学誌への投稿活動、活発に続ける。(39才)

昭和26年(1951年)

間中病院を個人立より医療法人に改組。 理事長、院長を兼任。(40才)
この頃より、世界各地から針研究の為、次々に外国人医師が間中病院へ来訪。

昭和27年(1952年)

小田原市教育委員に就任。 (1期4年)

昭和29年(1954年)

東亜医学協会再発足の発起人となる。(他の発起人は矢数道明,細野史郎, 森田幸門,大塚敬節,馬場辰二)

昭和30年(1955年)

京都大学医学部大学院入学。(専攻生理学)
同年、胃疾患にて手術を受く。(44才)
母:乙女病没。(享年72才)

昭和32年(1957年)

医学博士号授与。 学位論文 「体表内臓反射、内臓体表反射に関する臨床的研究」(46才)
同年、小田原医師会会長に就任。 (1期2年)

昭和33-63年

針灸医学夏期講座 (毎年開催、現:経絡治療学会夏季大学)にて講師を務む。 (47-77才)

昭和34年(1959年)

国際針術学会 (パリ)にて講演。

昭和35~45年

東洋鍼灸専門学校三代目校長。(49-59才)初代校長は柳谷素霊氏、二代目校長は丸山昌朗氏。

昭和40年(1965年)

熱傷時の激痛の治療経験から、イオンパンピング(疼痛局所における負の静電気イオン排除)による治療法を考案。後に「生体イオン誘導コード」として特許実用新案取得(1975年6月11日、旭物療器研究所)二種金属療法(2MC:Two-Metal-Contact)についても研究。

昭和41年(1966年)

医療法人間中病院を特定医療法人社団温知会 (準公益法人) に改組。理事長に就任。(55才)

昭和44年(1969年)

谷美智士医師とともに、日本初の鍼麻酔下での外科手術に成功。

昭和47年(1972年)

間中病院院長を退任。 温知会理事長を専任。 以後 東洋医学研究、随筆、絵画、書道等に専念。
海外での講演活動も世界各地(フランス、ドイツ、オランダ、中国、台湾、韓国、香港、スペイン、カナダ、アメリカ、南米、エジプト等)に及ぶ(61才)
小田原ロータリークラブ第19代会長を務む。

昭和48年(1973年)

谷美智士医師とともに「医師のための鍼灸セミナー」を主催。(日本東方医学会の前身)

昭和49年(1974年)

北里大学東洋医学総合研究所、東洋医学研究客員部長に就任。(大塚敬節所長の希望により、同研究所内に間中研究室を設置)
「医師のための鍼灸セミナー」を「MSA会(Medical Study of Acupuncture)」と改称。副会長:谷美智士医師、沢津川正一鍼灸師

昭和50年(1975年)

「鍼灸トポロジー医学会」を創設(64才)。(以降、1989年まで学長を務める)

昭和51年(1976年)

MSA会機関誌『Acu-journal』を発刊。

昭和53年(1978年)5月6日

第1回、鍼灸トポロジー学武(まなぶ)会学術大会が開催される。
MSA会として中国から5名の老中医を招聘して講演。

昭和55年(1980年)

妻: キヌ病没 享年68才
日本医師会最高優功賞(東洋医学の発展に貢献した功績に対し)及び神奈川県医師会 衛生功労賞を受賞。
世界総合医療学術会議総会(アムステルダム)にて講演。
この頃、「MSA会」の医科部会を「医師東洋医学研究会」に改称(副会長:谷美智士医師)(69才)

昭和56年(1981年)

第32回日本東洋医学会にて学術総会会頭を務める。

昭和57年(1982年)

講談社 「日本医科学大事典」 に東洋医学の項を執筆(70才)

昭和58年(1983年)

「医師東洋医学研究会」を「公益財団法人 東方医療振興財団 日本東方医学会」に改組、改称。

(医師東洋医学会の歯科部会の方は日本歯科東洋医学会となる)小田原市功労賞(東洋医学の普及発展に貢献)を受賞。

昭和60年(1985年)

日本東方医学会学術誌『東方医学』創刊。

昭和63年(1988年)

世界医学気功学会(北京)副主席(77才)

平成元年(1989年)

11月、ベトナム戦争におけるソンミ村事件に心を痛め、小田原の寺院、東泉院に「何のために死んだのか判らない人たちのために捧ぐる碑」を造立。

11月20日、肝臓癌のため、間中病院にて死去。(享年78才)

 ※写真は、東洋鍼灸専門学校所属 

 ※オクツ薬局所蔵の略年譜に補筆修正

 

「間中喜雄先生の著書目録について」矢数道明(1990『漢方の臨床』第37巻2号より抜粋)

【著書:計28部】

1.医道の日本社(10部)

・カイロプラクティック(訳本) 昭和27

・鍼灸入門講座 (ヘルベルト・シュミット共著) 昭和29.12.15

・随筆・鍼・灸・漢方 昭和37.7.1

・神経領帯治療(訳本) 昭和40

・鍼灸臨床医典 昭和45.3.15

・奇穴図譜(訳本) 陸・朱編著 昭和46.6.10

・推拿療法(訳本) 趙正山編著 昭和46.12.10

・かっぱ随筆 霊界からの手紙 昭和55.9.15

・平田式十二反応帯熱針刺激療法 昭和57.3.1

・ちぐあん随筆 そろばんのむだ玉 昭和63.12.1

 

2.主婦の友社(4部)

・灸と針の効用 昭和39.5.31

・間中喜雄博士の灸とハリ 昭和46.1.20

・推拿(ツイナア)の効用と実際 中国式あんま療法(英文も) 昭和47.8.15

・耳針のすべて 昭和(詳細時期、不記載)

 

3.創元社(3部)

・むんてら 昭和38.6.10

・肩こりと腰痛 昭和46

・針灸の理論と考え方 昭和46.2.20

 

4.東洋医学社(1部)

・坐骨神経痛の治療(孔版) 昭和27.7.1

 

5.中国人民衛生出版社(1部)

・針灸入門講座(中文翻訳)『針術的近代研究』 昭和33.6.15

 

6.久保書店(2部)

・病気の自己診断の手引 昭和36 金剛社

・PWドクター -沖縄捕虜記- 昭和37.9.13

 

7.朝日新聞社(1部)

・医学は人を救っているか -臨床の現場で- 昭和38

 

8.ごま書店(1部)

・お灸の研究 昭和51

 

9.鍼灸トポロジー学会十五周年記念 論文集編集委員会 雄渾社協力(1部)

・間中喜雄論文集 昭和63.12.17

 

10.台湾出版社(1部)

・灸穴治療法(中文翻訳)

 

11.Roading Book Co. (1部)

・Chaising the Dragon‘s Tail(英文)

 

12.General Printing Co.

・L‘acupunuture a vol d’oiseau(仏文)

 

13.Weatherhill Inc.

・Laguman‘s Guide to acupuncture(英文)

 

以上の28部に含まれない、間中先生の随筆集3冊の中に採用していない随筆は下記の通り。

 

『日本医科芸術クラブ十周年記念文集』の随筆集『ゆかり』式場隆三郎氏編集 金剛社 昭和38.1.31

 

☞この『ゆかり』に投稿された間中先生の随筆の題名は「尾」。

 他に東洋医学関係者では大塚敬節氏、矢数道明氏、操体法の橋本敬三氏も寄稿している。

 日本医家芸術クラブは2023年現在も存在する。https://www.ika-geijyutsu.jp/

 

 

海外出張の記録  ※昭和50年3月~昭和63年10月までの記録(北里大学研究員としての出張)

1.昭和50.3.16~29 中国医学国際シンポジウム (アメリカ)

2.昭和50.6.18~20 アジア鍼灸学術会議に出席 (韓国)

3.昭和51.10.26~30 国際東洋医学学術大会で講演 (韓国)

4.昭和52.4.30~5.7 中医学会に出席 (香港)

5.昭和53.10.6~13 ソウル市三大学にて講義 (韓国)

6.昭和54.4.27~30 東洋医学協会、ソウル大会で講演 (韓国)

7.昭和56.10.9~18 北京中医学院その他と学術交流 (中国)

8.昭和57.8.8~15 北京中医学院並びに桂林中医学院で講演 (中国)

9.昭和59.8.6~15 中国針麻酔及鍼術学会(第二回国際討議会)で発表 (中国)

10.昭和59.10.22~25 日中友好医院開院式招待出席 (中国)

11.昭和60.6.30~7.14 鍼灸術講義(出版社主催の鍼セミナー) (アメリカ)

12.昭和60.8.15~18 第七回韓日高麗手指鍼学術セミナー特別講演 (韓国)

13.昭和61.10.7~11.2 鍼術セミナーの講演 (アメリカ)

14.昭和61.11.12~29 Academic Seminar for Study on. Acupuncuture Regulation 講演 (中国)

15.昭和61.12.26~1.8 香港鍼灸界との交流、広州医学院で講義 (香港・中国)

16.昭和62.10.8~14 第一回国際活血化瘀学術会議に出席 (中国)

17.昭和63.4.8~20 鍼灸セミナー招待講演 (アメリカ)

18.昭和63.10.10~13 第一回国際医学気功学術交流会議に出席 (中国)

 

※北里大学からの出張は、上記の計18回であり、それ以外は下記の通り。

 

・昭和45.11.14 ザギ経済貿易大臣が、フランス語の「鍼術入門講座」を読み、

 進行性筋萎縮症を患った息子の往診を強く希望した為、エジプト・カイロに向かう。

 (『医道の日本』昭和45年2月号に報告が記載)

 

間中先生の告別式の折に挨拶状に添えられた、間中家で作られた略歴書の記載内容より

・昭和34 国際針術学会で講演 (フランス)

・昭和55 世界総合医療学術会議総会で講演 (オランダ)

 

・その他の海外の学会発表や講演として、フランス、スペイン、エジプト、西ドイツ、アメリカ、

 カナダ、ブラジル、メキシコ、ウルグアイ、アルゼンチン、中国、香港、フィリピン、韓国が追記されている。

 

・余談ではあるが、『育児の百科』などの著書で知られる京都帝国大学医学部出身の小児科医で、評論家としても知られる松田道雄氏は遠戚にあた  

 る。(『国手 間中節斎』P27参照)

 

文責:日本東方医学会学術委員 竹下有 2024.1.1

間中喜雄先生について                                                                               

 間中先生は明治44年4月23日神奈川県小田原市に生まれた。

 青少年期から天才のほまれ高く、刻苦努力の上にいつも温かい人情が豊かに、

 気宇壮大で朗々を呼び幽玄を洞察する眼光は生涯かわらなかった。まことにまれなひとである。  

 京都帝国大学医学部卒業後、満州沖縄の軍務と終戰の後、 郷里で間中外科医院(明治39年.初代間中直七朗)を継がれ、

 間中病院を開設される(後に特定医療法人温知会に改組)。  

 この間、小田原市教育委員会員、小田原市医師会長となる。 外科学界でもすぐれた名手であった。  

 昭和25年日本東洋医学会設立に参加された以後、東洋医学発展の為に全力をつくされた。  

 東洋針灸専門学校長、北里研究所東洋医学研究所客員部長となり永年にわたって国内はもとよりの学会頭であったが(昭和56年)、

 国際的には東洋医学関係学会(フランス、ドイツ、オランダ、中国、台湾、韓国、香港、スペイン、アメリカ、カナダ、南米等)に

 日本を代表して思い起こせない程に数多く、二十数回もその国の言葉で講演を行う驚異的な努力と才能であった。

 日本医師会最高優功賞、神奈川県医師会衛生功労賞、小田原市功労賞を相ついで受ける。  

 世界医学気功学会(北京)で副首席となる。(1989年) 特記すべきは 東洋医学を 現代の科学の進歩発展途上に創造的にとらえ

 おのずから東洋医学と西洋医学の結合を情報医学として予見された (トポロジ-医学,人体X信号系.易経と DNA 構造の相似性等)。

 日本の「間中」ではなく世界の「マナカ」として有名であったが、 学問の世界だけではなく文章、絵画、彫刻、語学の面に於いても

 その特異的な智能のスバラシサには驚く許りである。  

 永年精力的な使命感に充ちた活動を休みなく続けられる中にも、この十数年間の日々は医師として みずからの肝癌と対決し.

 先生のかねて研究される ”気”によって肝癌を超克される輝かしい貴とい毎日であった。

 平成元年11月20日享年78才で、わずか2日間の自らの入院で大往生された。

 特定医療法人 温知会 間中病院 ( 小田原市 本町) は 間中喜雄先生が先々代の 間中直七郎先生(明治13年生,大正2年.間中外科病院)の

 あとを継ぎ現在の間中病院の前身を築かれた。 只今は、理事長を長男の間中純也氏が東大外科から帰りつがれ.

 御次男信也氏は帝京大学脳外科教授から当院長になられた。 最先端医療に東洋医学的視点を加えられ.

 間中節子氏 ( 純也氏夫人)は聖心女子大から東大保健学科に学士入学されて 看護師.保健師.検査技師の資格をとり

 現代の医療.介護.看護.福祉等と複雑な医業経営の中心で事務局長として活動されておられる。

 御三男の 松岡賢也氏は父君喜雄氏の母校京都大医を出られ父君のユニ-ク なオリジナリテをつぎ

 靜岡市八千代町 にて開業され東洋医学の新境地をひらいておられる。

 

 松岡伯靑先生 1990年執筆記事より

 

 

 

「間中喜雄先生 追想集」(「東方医学」Vol6 No.1 1990より)

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