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谷美智士先生について - 一般財団法人 東方医療振興財団 日本東方医学会

一般財団法人東方医療振興財団

谷美智士先生について / 日本東方医学会二代目会長 名誉会長

谷美智士先生の決意

  

「私が東洋医学に関心を持ったのは、母の病気がきっかけでした」

 

 1963(昭和38)年、長崎大学医学部を卒業し、さらに大学院(医学研究科)に進んだ谷美智士先生は、母の胃ガンを知る。しかし、手術を受けたものの、全身に転移していて、すでに手遅れの状態だった。当時、ガンは不治の病とされ、現代西洋医学では手の施しようのない時代であった。幼いころから女手ひとつで育てられた谷先生は、日増しに激しくなる母親の苦しみをなんとか和らげたい、その一心で母のそばについていた。あるとき、地方の伝統治療師がツボの部分を温める温熱療法をすると、その晩はよく眠れるといって、母はとても喜んだという。

 「その理由が、私にはよくわかりませんでした。ツボへの温熱療法は鍼や灸による治療と原理は同じだというのですが 、鍼灸などの東洋医学についてはまったくの門外漢でした。大学で学んできた西洋医学の常識とは違う世界の話ですが、母がよくなった、痛みが和らいだという以上、そこには何かがあるはずです」

 宮崎県立病院でのインターンを終え、大学病院の勤務医として働きながら、東洋医学や鍼灸の文献に目を通し、各地で開催される鍼灸の学会や研究会、講習会にも出席するようになった。早速、鍼を買い求めて、自分を実験台にして、ツボらしきところに刺してみた。注射針よりはるかに細い「寸六」と呼ばれる和針は、注射針のように皮膚を切る痛みもなく、また出血もなかった。それを母にも試してみると、「気持ちがいい」と喜んでくれたのである。

 1965(昭和40)年、2年あまりにおよぶ闘病を終えた母の死について、谷先生は自著『東洋医学と西洋医学』(PHP文庫、1997年)の中で、次のように語っている。

 

 『この時、私は「我が身をもって母は、私の人生を左右する決定的な契機を残してくれたのだ」と確信したのです。

 末期の母を苦痛から和らげてくれたのは、まぎれもなく東洋医学でした。悔いが残るとすれば、自分の手でもっと本格的な治療に役立てるほど、東洋医学が自分のものになっていなかったことです』

 

 1969(昭和44)年、大学病院を辞した谷先生は、その当時、東洋医学の第一人者として活躍されていた神奈川県小田原市の外科医、間中喜雄先生が院長を務める間中医院の勤務医となり、そこで日本初の鍼麻酔(急性虫垂炎)手術に成功する快挙を成し遂げた。

 その後、谷先生を中心に始められたMSA(medical study of acupuncture 医師による鍼灸治療研究会)の研究・啓発活動を母体として、1983(昭和58)年に厚生省(現厚生労働省)の認可を得て発足した財団法人東方医療振興財団(日本東方医学会)は、愛する母のがんを契機として、東方医学の基礎的研究と臨床治療、東西両医学の融合診療をめざす日本東方医学会の研究・実践活動は、谷美智士先生の決意から生まれたものである。